「スマ花」精神と大会運営 自律するスマブラ勢
はじめに
大会の時上位プレーヤー同士が勝つか負けるかのハイレベルな攻防は見ていて息が詰まるほどの緊張感があるが、プレイする側になってみたいと思った。
— なんちゃん/Nanchan (@nannchan1919) 2016年1月21日
スマブラは俺にとって人生の花だ。ここで、ここしかない場所で俺は咲きたいと強く思っちまったのさ。
スマブラ界隈では有名なツイートであるスマ花。
度々ネタ扱いされますが、改めて見てみるとここにはスマブラ勢が持つ精神性が鮮明に現れているように思います。
注目すべきなのは、ここでなんちゃんがスマブラを「人生の花」に例え、自分の行動の原理にしているところです。
では花の持つ価値とはいったい何でしょうか?
実際問題、果実は食べることができますが花はそれ自体が何かの道具になったり道具として役に立つわけではありません。
人が花に価値を見出したのであれば、それは他の何かのために役に立つという価値ではなく、ただ咲くだけの花そのものの価値であるはずです。
一般社会において「役に立たない」スマブラに対して、人が競技としての価値を見出す時、その人は生産的な物に価値があるとする一般社会の価値観から独立しているのです。
「スマ花」に現れるのは個人が「意味があるかどうか」という一般社会の価値基準から離れ、それ自体に価値を見出す自律の精神、そして、それらへの素直な欲求を自身の行動の原理にするあり方です。
自分はこれらの自律の精神がスマブラ界隈の根底を支える精神的な逞しさの根源であり、残すべき精神性であると考えています。
自律とは何か
そもそも自律という考え方とはどういうものでしょうか。
19世紀後半、ドイツの哲学者ニーチェは「神は死んだ」と説きました。
当時の情勢といえば科学が発達し、キリスト教の神のような絶対的な存在をもはや盲信できなくなってきた時代です。
そのような時代においてニーチェが求めたのは、人間が自らを統治し、自らの従うルールや価値基準を自らに与えるあり方です。
ニーチェは、人間の自然な感情や欲望を否定するキリスト教の清貧、禁欲主義的な教義に思考停止で従って生きるような姿勢が、人間本来の生きる力を弱めるのだと主張し、そのような人々に対して「自分自身の主人たれ」と求めたのです。
ニーチェの示す弱者とは、価値の基準をいつも外側に求めてしまうような人であり、対して強者とは、価値の基準や良し悪しについての判断を自分で行える人のことを指しているのです。
スマブラ界隈の歴史
スマブラ界隈成立の歴史を振り返ると、上記の19世紀ヨーロッパの状況と似通っている点があります。
それは絶対的な価値観の提供者が不在だったという点です。
スマブラ界隈は本来コミュニティにおいて絶対の存在になるであろう公式の大会、あるいは企業が主催の大会が長年ありませんでした。
そんな中、「アイテム無し1on1」というある意味異端なルールに競技としての価値を見出した人間たちが、自ら大会を開き始めました。
イベンターでも何でもない在野の人間達が集まって会場を取り、皆で倉庫から台車でモニターを運び、トーナメントを開き、試合を配信するという極めて泥臭い世界です。
自分はこのような環境と歴史が「大会とは自分達自身で作っていくものだ」という精神と、雑な物を許容する雰囲気を生み、それらがスマブラ界隈の発達の下地になったのだと考えます。
「スマブラ界隈は任天堂がeSports的な公式大会に力を入れればもっと発達するのではないか」という意見が時折見られます。
しかしこのような精神的な文化の醸成という点に注目すれば、公式大会という絶対の価値観の提供者が不在の環境であったからこそ、スマブラ界隈には自律して価値を決める文化と、それらを個人の欲求で形にする創造の文化が育ったのだと考えることができるのではないでしょうか。
界隈と大会運営
この記事で主張したいのは、ユーザー主催の大会はスマブラ勢本来の精神を大会や界隈に残しながら運営していくことが重要ではないかということです。
個人的に、スマブラ界隈とはオフ大会の持つコミュニティを統合する機能が成長させたのだと考えていますが、もし大会自体のあり方が界隈に対して大きな影響を与えると考えるのであれば、そのあり方は界隈の人間一人一人のあり方に影響を及ぼす存在であるはずです。
現実に、大型大会の運営には参加者の人達全員の協力が必須ですし、大会運営はトーナメントの進行というだけではなくコミュニティのマネジメントという要素が多分に含まれています。
大会運営とは自分たちの属するコミュニティの人達にどうあってほしいか、あるいはお互いにどういう関係でありたいか、ということを長期的に考えていく必要があるということです。
そこで啓蒙したいのが「スマ花」に見るような自律の精神です。
様々な問題に対してコミュニティの人間ひとりひとりが自分の価値観や倫理に基づいて自律して判断するようになれば、大会運営だけでなくコミュニティ全体の様々な問題を円滑に解決したり、未然に抑制することができるのではないか、という考え方です。
キャンセルカルチャーの抑制
例えばSNS上では事あるごとに「やらかした」人間を集団で晒し上げる、いわゆる炎上現象が散見されます。
例えば、事あるごとにルール違反者(とされる人間)に集団で制裁を与える界隈があったとして、それは果たして「自浄作用のある良いコミュニティ」と言えるでしょうか?
どんな粗も見逃さずに炎上させるようなキャンセルカルチャーは活動や議論の萎縮を生みますし、その中で新しいチャレンジをしようとする人間は生まれづらいです。
もしスマブラ界隈がそのような雰囲気になったとしたなら、それは界隈本来の不純物を許容する自由な雰囲気とは程遠い物であるはずです。
そもそもトラブルとは利害の関係者同士がルールや法律に則って対応して解決するべきであり、第三者への拡散は問題解決への本質的な方法ではありません。
思考を停止し、個人への制裁を優先する炎上という現象は、問題を解決しようとする姿勢ではなく安全地帯から他人を罰したいという低俗な欲求が原動力になった物です。
「叩きたい人」は「問題の解決」を行いませんし、他罰的思考とは自律の精神とは対極に存在するものです。
問題の段階にもよると思いますが、コミュニティの治安とは出る杭を打つような他律の行為ではなく、それぞれの倫理を基準にした自律によって抑制されていくのがより良いあり方ではないでしょうか。
自分で何かを意思決定しない人間は何か問題が起こった際にも「責める対象」を外に探します。
個人が他罰や他律に依存せず自分の判断基準を持ち、一つ一つのトラブルに対しても冷静に対応するようになれば、思考停止で暴走する魔女裁判は抑制されるはずです。
自身への評価
フォロワー数や配信の同時接続者数、特定のランキングの位置で自分たちの価値を決める人はどんなジャンルにも存在しますが、それは他者からの評価や数字など自分以外のものに自分の評価を委ねる弱い姿勢です。
自律した強い個人や集団とは自分達の価値を自分で決められる存在の事ですから、「他の何かと比べて勝っている」というような価値基準ではなく、自分達自身で決めた価値観を通じて自分たちの価値を測ることのできる存在であるはずです。
確かに数字で一つ一つの事をはっきりさせていくことは重要です。
しかし、数字自体はそれそのものの価値に直接結びつく物ではないはずです。
乱暴な例えですが、たとえば骨董品の鑑定番組に「家族の思い出のアルバム」を出品したとして、鑑定家はそれに値段を付けられるでしょうか?
特に「それ自体の価値」を追求する文化芸術には定まった正解など無いわけですから、一つの価値基準で決める必要はないはずです。
たとえ他者からの評価がなくとも、その人自身が見出した価値が達成されているなら自分達の価値を堂々と誇ることができるはずですし、そういった独立した価値観を持つ存在が増えることで、多様な個性が存在する環境が生まれていくのではないでしょうか。
大会の大型化と消える自律への危惧
なぜ重ねて自律の精神を残すべきかと主張するかというと、それは意識的に形に残そうとしながら大会を運営しなければ薄まったり消えたりする場合があるからです。
自律の精神で作られた新しい存在も、それが大型化したり定着すれば、知らないうちに絶対的な存在、すなわち盲信の対象になり得ます。
大会も人数の規模が増えれば組織的な統制の必要性が高くなり、スタッフや参加者個人の自由が成約される場面も多くなります。
長期的なノウハウの蓄積で特定の運営方法に固執するようになれば、それもまた思考停止を生みます。
例えば、特定の方法に異様に拘る大会、上下関係が絶対な大会、ルールで雁字搦めにした大会というのがあった場合、その中でスタッフや参加者は自律しうるでしょうか?
自律の生まれる背景を考えると、それらは何らかの形での自由を前提にしたものです。
懸念するのは特定の存在の絶対化、ルールの厳格化が界隈の人間の自由を奪い、絶対的な存在への盲目的な追従と他律への依存を強くすることです。
既存の価値観から独立して革命的に作り上げたはずの存在が、知らずのうちにスマブラ勢本来の自律と主体的な独立の精神的文化を弱めるのならそれは本末転倒です。
大会や界隈に自律の精神を残していきたいのならば、自律の存在も他律への依存を生み出す存在に変わることがあるということに対して、自覚的になる必要があるのです。
自律を尊重する運営
では自律と素直な欲求(スマ花の精神)を上手く残していく大型大会の運営とはどういったものでしょうか。
上にも書いたように、人に自律を促すならば何らかの自由の前提が必要になります。
すなわちここで明確に残したいのは個々人の自由度です。
そもそも、将棋の駒を動かすような絶対の命令を前提にする大会運営は、ユーザー大会において一番重要であるぞれぞれのモチベーション維持に悪影響を及ぼします。
スタッフそれぞれに意思決定の機会が無ければ長期的にはそれぞれの持つ当事者意識、地続きであるという感覚も減らしていきます。
そこで提案するのは、スタッフや参加者の個の尊重や自律を通じて組織の目的を実現していくという運営モデルです。
個人的には「公益のための自己犠牲」のような禁欲的な精神だけで魅力的な大会を作っていくことは難しいと考えています。
それよりかは、個人の欲求と自律(スマ花)を肯定し、そのエネルギーを前向きに運営に利用していくことがより良い大会への近道ではないでしょうか。
トップダウンとボトムアップ
具体的にはトップダウン主体ではなくボトムアップ主体の運営体制をすべきでないかという意見です。
即ち、トップの命令を末端が実行するという形態ではなく、全体のコンセプト(組織としてのやりたいこと)をトップダウン的に打ち出し、それに対して個人が実行案を提案したり、自らが実行者になっていくという体制です。
そこで求められるマネジメントとは、ひとりひとりが自由に使える白紙の部分を用意し、そこで生まれたものを大会のコンセプトとうまく統合してようなものです。
この体制のために必要なのは何が自分たちの大会の核の部分であるかというのを自覚し、どこが変えていけない部分なのかを理解することです。
参画者の自由度を確保する場合は、逆に変えてはいけない部分を正しく理解する事が必要ですし、その場合、ルールやコンセプトは参画者の行動を縛る物ではなく、逆に何をやっていいかを明瞭にするものだと考えられるのではないでしょうか。
自分達のコンセプトを明確にするために必要な事に関してはこちらhttps://smash-iroiro.hatenablog.com/entry/2021/12/20/010527:こちらの記事でも書いていますが、「本来やりたかった事とは何か」だとか「何のためにそれをやるのか」というのを掘り下げていく事です。
これらの問いで集団の核となる部分が浮き彫りになれば、個人が自由に活動する際に指標にするべき物が見えて来るはずです。
おわりに
ここまで自律が大事だというのを重ねて主張しましたが、現実にはそれぞれの自律に任せているだけでは処理しきれない問題も多いかと思います。
問題が起こった時、そのフェーズによっては運営側がトップダウンで厳正な処理を行う必要があります。
大会運営においてスタッフや参加者全員が自律し好きなことをやり始めると、ゴミの処理のような自然と誰もやりたくないような創造性の無い仕事は溜まっていきます。
新規のスタッフに「自分で判断しろ」と突き放すだけでは混乱するだけでしょうから、周りからのフォローも必要になります。
「個人の自律の容認」と「ルールに対するお行儀の良さ」は反目する部分もあるでしょうから、参加者個人の倫理のあり方によってはコミュニティの治安が悪くなるリスクも抱える場合もあるかと思います。
ただ、個人それぞれが一個の主体として精神的に自律する存在であることは、こういったリスクよりもはるかに大きく、本質的な価値を持っているのではないかと自分は思っています。
とにかく言いたいのは自分の感じたこと、自分の出した答えを大事にしてほしいということです。
スマブラ界隈の生んだ「スマ花」の精神性とは、他の人が何と言おうと自分の目でそこに価値を見出すことです。
人が大会への参加申請時「私はロボットではありません」の欄にチェックを入れる時、確かにその人間は一個の主体として尊厳を持って自律しているのです。